明治生まれは4人 歴史の証人の長寿願う

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松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

青山学院大学大学院法務研究科卒業。1985年から2014年まで日刊スポーツ新聞社に勤務。退職後にフリーランスのジャーナリストとして活動を開始。

 国内の明治生まれのご長寿は、8月26日の時点で女性4人と思われる。老年学の研究団体のHP、国内の報道や海外のサイトによると、今年に入り、3月以降に明治生まれの女性が5人亡くなっている。5つの元号の下で暮らしたご長寿にはいつまでもお元気でいることを願っている。

◾️国内最高齢は産婦人科医

明治生まれのご長寿さん

 7月30日に奈良県大和市は市内在住の賀川滋子さん(1911年生まれ、114歳)が国内最高齢であることをホームページ上で発表した。同日、厚生労働省から連絡が入ったもので、その日のうちに同市の職員が自宅に出向いて取材を行っている。

 それによると、賀川さんは産婦人科医、内科医で80歳を超えても活躍をされていたという。取材に長生きの秘訣を聞かれて「なんにもない。特別なことはなんにもしていない。みんなと一緒のことをしているだけ」と答えたという(大和郡山市・国内最高齢(取材記事))。

 高齢者の情報は老年学の研究をする老年学研究グループ(Gerontology Research Group =GRG)が権威あるサイトとして知られ、世界の高齢者を紹介している。それによると、賀川滋子さんは1911年5月28日生まれで、世界では7番目の長寿とされている。1位は英国のエセル・ケータハム(Ethel Caterham)さんで1909年8月21日生まれの116歳Gerontology Research Group・World Supercentenarian Rankings List

 当サイトでは今年1月14日、明治生まれの人はどの程度ご存命なのかを調べて記事にした。その時点では国内に10人、国外に1人で合計11人の日本人が存命であるとした(参照・明治生まれ国内10人 出生時に新選組永倉新八存命)。

 3月以降、賀川さんより年齢が上だった5人の方が鬼籍に入り、また、1人は記事にした時点では確認ができなかったが昨年10月に亡くなられていた。海外で存命だった方は2023年に他界していることも分かった。こうして7月30日に賀川さんが国内最高齢となった。この日は明治が終わり、大正に改元された日であり、何か因縁めいたものを感じさせられる。

 手元で確認できる範囲で日本人の明治生まれは、表のとおり4人しか存命されていない。国内5番目のご長寿は神戸市の熊谷美穂さんで、改元後の大正元年の生まれとなる(神戸市・2024(令和6)年度市内100歳以上高齢者数及び市内の男女最高齢者)。

◾️江戸時代生まれが存命だった昭和

 今年64歳になった筆者が子供のころは、お年寄りといえば明治生まれで、国内には江戸時代に生まれた方もご存命だった。役所の生年月日を書く欄には(明治・大正・昭和・それ以前)という表記があった。今では民間の書類では明治もなくなっているのがほとんどである。

 国内で最後の江戸時代生まれとされたのが、河本にわさん(文久3年8月5日~昭和51年11月16日)とされる。ウィキペディアには「出生記録が確認できる日本人としては、江戸時代生まれの最後の人物」と記されている(ウィキペディア・河本にわ)。

 もっとも、明治という元号は改元時に、年初に遡って明治とするとされており(国立公文書館・明治改元の詔)、生まれた時は慶応であったが、後から明治になったという方がいる。その方を含めると、河本さんは最後から2番目となるという。

 鈴木貫太郎元首相は最後の江戸時代生まれの宰相とされ、誕生日は慶応3年12月24日。明治改元の詔によっても慶応3年生まれは変わらないが、その後、1872年に新暦(グレゴリオ暦)に切り替えられており、新暦に従えば鈴木元首相の誕生日は1868年1月18日となる。我々は1868年=明治元年と機械的に理解しているため、江戸時代生まれの宰相という表現に多少の違和感を覚えるが、150年前の暦と改元が重なるので事情は複雑である。

 それはさておき、河本さんが亡くなったのが1976年で、それ以後は明治生まれが国内最高齢であったと考えると、その45年後(明治は45年まで)は2021年となる。その4年後の2025年でも明治生まれの方が4人とはいえご存命なのは、喜ばしいことと思う。日本の歴史を支えてきたお年寄りが、元気に日々を過ごされる社会であってほしいというのは国民全員の願いであろう。

◾️93歳になった母に聞く

 個人的な話で申し訳ないが、筆者の母は今年93歳になった。多少、物覚えは悪くなったが、それでも元気に暮らしている(参照・昭和深イイ話 背筋伸ばした駄菓子屋のジイさん)。

 生まれてすぐに祖父が南満州鉄道勤務のために家族で大連に渡り、戦後、日本に引き揚げてきた。満州生まれ、満州育ちの人自体が少なくなってきており、会った時にはできるだけ昔の話を聞くようにしている。

 最近も当時の言葉について聞くと、興味深いことを話してくれた。母の両親(筆者の祖父母)は東京生まれの東京育ちのため、ガ行は鼻濁音(有声軟口蓋鼻音[ŋ])を使って話していたという。筆者も子供の頃に叔母から鼻濁音を使うように言われ、内心(うるさい叔母さんだなぁ)と思ったのを覚えている。

 その話を母にすると、「そうだよ『がきぐげご』は『んが、んぎ、んぐ、んげ、んご』って発音するんだよ」と言う。「でも、単語の最初は『が』だろ?」と聞くと「そんなの当たり前じゃないか。でもね、『私が』の『が』は鼻濁音だよ」とスラスラと話した。最近はアナウンサーも鼻濁音を使用しない人が増えており、こういう話は後に続く世代に伝えていかなければならないと感じた次第である。

 ちなみに「大連ではみんなどういう言葉で話してた?」と聞くと、「九州から来た人が多かったので、九州弁で喋る人が多かった」とのことであった。

◾️自分だけのストーリー

写真はイメージ(AIで生成)

 明治生まれでご存命の4人の方は、さすがに明治の末の生まれなので明治時代の記憶はないと思われるが、大正になればかなり記憶も鮮明なのではないか。きっとその人にしかない歴史、今風にいえば物語、ストーリーを持っていらっしゃるに違いない。

 神戸市の職員が賀川さんが国内最高齢になった時に話をうかがったのは、そうした思いがあったのかもしれない。

 筆者の母も賀川さんのように元気で長生きをして、自らの貴重な経験を歴史の証人として語り続けてくれればと思う。今、93歳の母が賀川さんの歳になるまであと20年。

 そこまで頑張って生きてくれるのはいいが、その場合、僕の方が先にいなくなっているかもしれない(笑)。

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