広島平和宣言またも日英で意味改変”欺く行為”

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

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広島への原子爆弾投下から80年となる6日、松井一実市長は原爆犠牲者慰霊平和記念式典で平和宣言を読み上げた。しかし、同市が発表した平和宣言は公開された日本語と英語では異なる。石破首相が出席していることなどを考慮したものと推測される。核廃絶という高邁な理想を掲げる広島市長が、その最も重要な時、場所で相手によって表現を変える、そのような手法は広島市民だけでなく国民や世界の人々を欺く行為と言い得る。さらに今年は公表された宣言と、市長が読み上げた文章に過失とは思えない追加表現があり、その政治手法は看過できないレベルに達している。
◾️日本語と英語で意味が異なる平和宣言
原爆投下から80年目となる今年の平和記念式典で、松井一実市長は例年通り、平和宣言を発表した。市長が読み上げた文書は、広島市のホームページでも公開されている。犠牲者の霊に哀悼の意を捧げるとともに、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向け力を尽くすことを誓う内容は例年通りのものと言える。
ここで注目されるのは、核兵器禁止条約について言及した部分。市のHPからダウンロードしたものを見ると、以下のようになっている。「核兵器禁止条約の締約国となることは、ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会を含む被爆者の願いに応え、『ヒロシマの心』を体現することにほかなりません。」(広島市HP:平和宣言)。
同市HPが公開した英語版では以下のようになっている。「We call on Japan, for example, to sign and ratify the Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons (TPNW). Doing so would manifest the spirit of Hiroshima and begin to answer the supplications of our hibakusha, represented by Nihon Hidankyo, last year’s Nobel Peace Prize recipient.」(広島市HP:平和宣言英語版)。これを和訳すると「日本に対して、核兵器禁止条約(TPNW)への署名と批准を求めます。それこそが、広島の精神を体現するものであり、日本被団協(昨年のノーベル平和賞受賞者)を代表とする被爆者の願いに応える第一歩です。」
両言語を比較すると、明らかに意味が異なる。日本語版では「核兵器禁止条約の締約国となること」が主語であるが、英語版では「We(私たち)」に変わっている。そして、日本語核兵器禁止条約の締約国になることは、『ヒロシマの心』を体現することになると、仮定の事実が実現した場合には、このような現実的効果があるという、主観的評価に基づく事実のような提示と言える。
ところが英語版では明らかに、私たちは日本政府に対して核兵器禁止条約の署名と批准を求める(call on)となっている。この「call on(/upon somebody)」は、「to ask or demand that somebody do something」と説明される(Oxford Learner’s Dictionariesから)。丁寧な形での強い要請を示す言葉で、外交声明などでよく目にする表現である。
日本語版では「核兵器禁止条約の締約国になれば、こうなりますよ」と市長の主観に基づく事実の指摘に過ぎなかったものが、英語版では「我々は日本政府に核兵器禁止条約への署名と批准を強く要請する」と言っているのである。
◾️発表された宣言と市長の読み上げた宣言の乖離
このような表現の乖離がなぜ生じたのか。考えられるのは、平和記念式典には石破茂総理が出席していたという政治的事情である。日本は核兵器禁止条約の署名も批准もしておらず、オブザーバー参加すらしていない。その理由は米国の核の傘に守られている現実があることにほかならない。
そうした日本が核兵器を廃絶する条約に署名することは、自分たちを守ってくれている最も強力な手段を捨てようとしていることになるという自己矛盾に陥るからと考えるのが自然である。そして、その方針を有する政府の代表(石破総理)の前で、政府批判をすることになる表現は避けたいという思惑が働いたのではないか。英語版ではそのような配慮が不要と考えられたため、市長は堂々と自身の政治的主張(核兵器禁止条約への署名)を明示した可能性がある。
もう1点、見逃せない手違いがある。それはHPで発表した文言と、市長が実際に読み上げたもので1箇所だけ異なっている点である。HP上では「核兵器禁止条約の締約国となることは、ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会を含む被爆者の願いに応え、『ヒロシマの心』を体現することにほかなりません。」となっているものが、実際に読み上げた時には「核兵器禁止条約の締約国となることは、ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会をも含む被爆者の願いに応え、『ヒロシマの心』を体現することにほかなりません。」と、「も」が加えられていた(TBS NEWS DIG:【LIVE】戦後80年 広島「原爆の日」平和記念式典(2025年8月6日午前8時~))。
この「も」が加えられることにより、ノーベル賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会でさえも同意見であると強調し、主張に重みを与える効果を持つ。英語版であれば、「represented by Nihon Hidankyo, last year’s Nobel Peace Prize recipient.」となっているところを「represented by Nihon Hidankyo as well, last year’s Nobel Peace Prize recipient.」と「as well」を加えるに等しい効果がある。
日本語版で「も」が、英語版では「as well」がないのに、あえて「も」を加えたのは偶然や過失によるものとは考えにくい。その場でノーベル賞受賞団体でさえそう思っているんだと強調するが、市のHPで特定の団体を持ち上げるような表現はよくないということで「も」も「as well」も加えなかったものと想像される。つまり、「読み上げ」では強調を加え、「発表文」では控えめにするという、文脈操作があったと見ざるを得ない。
◾️過去にも同様の事例
広島市のこうした手法は特に目新しいことではない。2023年の平和宣言でも同様の方法で日英語間で意味の乖離が発生している。日本語では「世界中の指導者は、核抑止論は破綻しているということを直視し、」としながらも、英語版では「世界中の指導者は、核抑止論は愚案であることを直視し、(However, leaders around the world must confront the reality that nuclear threats now being voiced by certain policymakers reveal the folly of nuclear deterrence theory. )」とされていた。実際の宣言では「核抑止論は破綻」と客観的な事実の指摘となるが、英文では「核抑止論は愚案」という市長の主観的な評価にとどめたのである。
2023年には筆者は同市の平和推進課に聞いたところ、「意訳をしています。この部分だけでなく、他の部分も意訳になっています。そのまま日本語を一語一語置き換える訳にはなっていません。」「それを(日英で意味が)違うと言われるのであれば、それは私たちはそうは思っていません。」などと開き直りとも思える説明がなされた(以上、参照・平和宣言「核抑止論の破綻」英語では意味変更)。
◾️広島市長、言いたいことがあれば堂々と
広島市長が核兵器廃絶に関してどのような政治的な信条を持つのも自由であるが、多くの人が亡くなり、今なお、その後遺症に苦しむ方がいることを強調した上で自らの政治信条を語るのであるから、「総理大臣が目の前にいるから」「下手なことを言えば総理は出てくれないかもしれない」と考える必要などないのではないか。堂々と自分の考えるところを主張すればいい。
しかし、市長はそうせず、英語版では強い表現を使い、日本語版では腰の引けた言い回しをしている。こうした姿勢に、筆者は強い違和感を覚える。おそらく、同じように感じる人は少なくないと思う。それは反核運動全体への不信感にも繋がりかねない。
筆者は核の抑止力によって広島や長崎を含む我が国の平和と安全を守るべきであると考えている。広島市長とは異なる見解であるのは承知であり、多くの人から批判を浴びることも覚悟しているが、それでも自分の信じるところを言い続ける。広島市長も核兵器廃絶を目指すなら、腹を括って思いの丈を平和宣言にぶつけたらいかがか。
日本語と英語で異なる、文書と口頭で表現を変える行為は、国民を欺くものと考える。そのような姿勢が最後には自分の首を絞めることにいい加減気付いたらどうかと思う。
同じく百田尚樹
この平和宣言は原爆投下、被爆者を利用したプロパガンダである。
同じく自己への利益誘導を計った百田尚樹の論理、その欺瞞は以下である。
あやまちは繰り返しません。
この言葉をめぐる米山議員との応答において百田尚樹は以下。(引用元産経Web)
●広島市民も日本国民も原爆に関して何も過ちを犯していないし、その責任もない。過ちは米国が犯したものである」と主張しました。
⇑
上記はすり替えから印象操作へと導く詭弁である。
原爆投下は米国が行った、日本ではない、よって原爆に関して日本に責任は無い。
自明の理である。
それをあえて言う意味は何なのか?
では
あやまちは繰り返しません、の、あやまち、とは何なのか?その主語は何か?
百田尚樹はこの点をスルーして触れない。
曖昧にして自己への利益誘導を計る、それは日本保守党又百田尚樹の支持者達の資質、心理を見抜いての事だ。又シンパシーを感じている者達を誘導し、より百田尚樹自身への支持を広め強固にせんとすることが目的だ。
ちょうどよい売り込みのチャンスとしたのだ。
あやまちに関し百田尚樹は曖昧に印象操作する。
⇓
●米山氏は、百田氏のポストを引用し、「戦争を開始した日本にも過ちがあり、原爆を投下した米国にも過ちがあるという極めて真っ当な言葉でしょう」と反論。「日本に過ちがないかのように言うことは、却って米国の過ちの認識も失わせる」と指摘しました。
●百田氏は8日午後、米山氏の発言を再び引用し、「あなたの解釈はごく普通の解釈ではなく、自虐史観と偽善に基づいた、捻じ曲がった解釈である」と批判。「おそらく死ぬまでそのことを理解できないだろう」「まさに戦後日本の自虐思想による洗脳の深い病理の典型的な実例」と強い表現で反論し、自らの「日本は原爆に関して過ちを犯していない」という主張を崩しませんでした。
⇑
百田尚樹は自虐史観と抽象的にごまかし、あやまち、の有無に関し無視している。
あやまちが無い、との主張ならば、その具体的根拠を語って当然だろう。
原爆等は米国が行ったのであり日本の責任ではない。
先の大戦に日本のあやまちは無かったのか百田尚樹は明確にせよ。
原爆投下、被爆者を利用するにおいて松井市長に同じくである。
御返信は不要です。