渡邊渚アナ”性暴力”語る メビウスの輪のような誘導

松田 隆🇯🇵 @東京 Tokyo🇯🇵

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元フジテレビのアナウンサー渡邊渚氏(28)の手記が6日、ネット上で公開された。今、中居正広氏の女性問題でキーワードとして注目されている「性暴力」に関して思うところを綴ったもの。ところが中居氏と、その女性問題には全く触れず、性犯罪として検挙された別の事案などでの行為を「性暴力」と呼び、手記の最後では中居氏の行為と同様の行為を性暴力と断じる構成となっている。まっすぐ歩いているつもりでも出発点の裏側に到達するメビウスの輪のような、読者が気付かないうちに出発点とは異なる方向に誘導する文章となっている。
◾️性暴力と性犯罪を同一視する内容
問題の手記はNEWSポストセブンで、前後編に分けて公開された。タイトルは「《渡邊渚さん独占手記》性暴力問題について思いの丈を綴る『被害者は永遠に救われることのない地獄を彷徨い続ける』」。それによると渡邊氏は「2023年7月にある事件がきっかけで体調不良を発症し休業を発表。退社後もPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しめられている。」(手記・前編)という。その上で、2025年は”性暴力”に関するニュースを見る機会が多く、PTSDを患った自分にとっては被害者の気持ちや状況が理解できるとする。
引き合いに出した事案は「大阪地検元検事正の性的暴行、映画監督の『主文以外はあとがき感想文』発言、性的暴行で逮捕されのちに不起訴処分になったスポーツ選手の日本代表復帰、一般の性暴力事件」(同)である。
大阪地検元検事正の北川健太郎被告は準強制性交罪で起訴されており、日本代表に復帰したS・K選手は不同意性交容疑で逮捕されている。「主文以外はあとがき感想文」発言の園子温監督は刑事事件にはなっていないが、報道される内容からは準強制わいせつと思われる行為をしたとされる。このように例示した内容からして、渡邊氏はその手記において性暴力を性犯罪と同じ意味で用いているのは明らか。少なくとも、一般の読者がそう感じるのは間違いない。
ところが、それらの事件、事案が性暴力と報じられることはあまりない。なぜなら刑法には「性暴力」という名の犯罪は規定されておらず、北川被告なら準強制性交罪、S・K選手なら不同意性交(容疑)と法律用語で報じられるからである。園子温監督の場合は性加害疑惑と報じられるのが一般的であった。
このような事案をまとめて「性暴力」と呼ぶのは不自然。その上、性暴力とはどのようなものか、最後まで定義は示されていない。それなのに、手記の最後で「はっきり“性暴力”だ」と断定している。何とも読者をミスリードするような、もっと言えば、読者を一定方向に誘導するかのような構成となっている。
◾️「性暴力」用いるなら定義を示せ
性暴力といえば、最近ではもっぱら中居正広氏に関する事案で話題になっている。フジテレビなどが設置した第三者委員会(以下、フジ第三者委)は、中居氏が同局の元女性アナに対して行った行為が性暴力であるとした。WHO(世界保健機関)が示した「強制力を用いたあらゆる性的な行為、性的な行為を求める試み、望まない性的な発言や誘い、売春、その他個人の性に向けられた行為」という極めて広範な定義に当てはめた結果である。
ところが、中居氏の代理人弁護士は「当職らが中居⽒から詳細な事情聴取を⾏い、関連資料を精査した結果、本件には、『性暴⼒』という⽇本語から⼀般的に想起される暴⼒的または強制的な性的⾏為の実態は確認されませんでした。」と強く否定している(第三者委員会に対する受任通知兼資料開示請求及び釈明要求のご連絡)。
渡邊氏の言う「性暴力」は性犯罪とほぼ同義であり、フジ第三者委が示した性暴力は、それよりも遥かに広範な意味で用いられている。
中居氏の問題では上記の「性暴力」の言葉の定義をめぐり、同氏とフジ第三者委が激しく対立し、文書でやり取りをしている(参照・逃げるフジ第三者委 説明できぬ「性暴力」認定)。それは渡邊氏の言う性暴力と、WHOの定義する性暴力の違いが対立の根幹となっている。そういう時期であるからこそ性暴力をキーワードにするなら、①「⽇本語から⼀般的に想起される暴⼒的または強制的な性的⾏為」なのか、それとも②WHOの定義なのか、はっきりさせるのが情報発信者としての最低限の務めであろう。
渡邊氏は少なくとも手記・前編においては性暴力=性犯罪という形で、①の意味で用いている。そして中居氏は①のような行為は行なっていないと、代理人を通じて主張している。
◾️定義なきまま「性暴力」と断定
手記は後編になると性暴力の定義を含め、微妙な表現が出てくる。まずは以下の部分である。
「性被害が話題になるたびに、世間の傍観者たちは口を揃えて『警察に行けばいい』と言う。」(手記・後編)
ここでは「性暴力」を用いずに、被害者目線で「性被害」としている。前編では性暴力を性犯罪と同じ意味で用いていたのであるから、ここも、こう書けばいい。
「性暴力が話題になるたびに、その被害者に対して世間の傍観者たちは口を揃えて『警察に行けばいい』と言う。」
なぜ、そう書かないのか。WHOの定義する性暴力は非常に広範であるから、日本の法の下では性犯罪として成立しない態様の行為も含まれている。たとえば「望まない性的な発言」も性暴力であるとWHOは定義しているのであるから、男性から「ニットのワンピース、似合ってるよ。渡邊さんはスタイルがいいね」と言われた場合、それを渡邊氏が望まなければ性暴力となるのであろう。そのような被害を受けたと警察に訴え出たところで相手にされないことは子供でも分かる話。そう考えて性暴力というキーワードを避けたのではないかと思われる。つまり、性暴力はあくまでも性犯罪という自身の定義に従った結果ではないか。
さらに以下の表現が用いられている。
「そもそも、恋愛関係でもない仕事相手や両親と同年代の異性から好意を向けられたり、セクハラをされたりするだけでも不快だ。なおかつ初対面や初めて2人きりになるような間柄で、同意もなく無理やり性的行為をされたら、それははっきり“性暴力”だ。」(同)
渡邊氏は「初めて2人きりになるような間柄で、同意もなく無理やり性的行為」は性暴力と断言している。前編では性暴力は性犯罪と同義で用いていたものが、手記の最後の部分で性暴力の範囲を広げている。「初めて2人きりになるような間柄で、同意もなく無理やり性的行為」であれば留保なく性暴力とする趣旨であり、すなわち、犯罪に至らないでも性暴力と言っているのである。
このように文章の最初と最後でキーワードの定義を変えた。手記の前後編を通して読むと、大阪地検元検事正などの性犯罪に代表される性暴力が問題になっているとして、多くの読者に「性暴力=性犯罪」という意識をすり込んだ上で、「初めて2人きりになるような間柄で、同意もなく無理やり性的行為」は性暴力であると断言し、その行為があたかも性犯罪であるかのように印象付けている。
メビウスの輪のように両端が捻れて繋がり、読者は違和感なく「初めて2人きりになるような間柄で、同意もなく無理やり性的行為」は性暴力=性犯罪であるという認識を持つようになる仕組みになっている。
◾️本当に全部自分で書いたのか
渡邊氏が書き手としての緻密さを欠いて性暴力という単語の定義をあやふやにしたまま書いた結果、このような文章になったとは思えない。「性暴力」を用いずに、被害者目線で「性被害」と書いた部分などを考えると、綿密に練られた文章であると考えられる。
「初めて2人きりになるような間柄で、同意もなく無理やり性的行為」というのは、中居氏とフジテレビの元女性アナウンサーのトラブルの中身そのもの。その前段の「恋愛関係でもない仕事相手や両親と同年代の異性から好意を向けられたり、セクハラをされたりするだけでも不快だ。」というのも、中居氏の事案と同じシチュエーションである。
結局、中居氏が代理人を通じて、「『性暴⼒』という⽇本語から⼀般的に想起される暴⼒的または強制的な性的⾏為の実態は確認されませんでした。」という主張を明らかにしたことに対して、「初めて2人きりになるような間柄で、同意もなく無理やり性的行為」されたのは性暴力と反論する形になっている。その反論も、前述のように、メビウスの輪のような形で読者を欺く…とは言わないが、誘導するようなものである。
中居氏は現在、フジ第三者委との間で、その事実認定や評価をめぐって対立している。おそらく、この先、法廷での争いとなるものと思われる。その場合、渡邊氏は訴外人である。当事者同士のやり取りに口を挟むべきではない。
筆者は、この手記を一から十まで渡邊氏が書いたとは思わない。ハーバード大学名誉教授で精神科医のジュディス・L・ハーマン氏の著書『真実と修復』(みすず書房刊)から一節を引用するなど、性犯罪被害を専門に扱う者がかなりの部分を書いたのではないかと感じられる。
もし、そうであれば、渡邊氏の名前を使ってこのような手記を発表させるのはやめた方がいい。共感する人もいると思うが、反発を感じる人も少なくないはず。その反発は渡邊氏が正面から受け止めることになるのは理解できるであろう。
28歳のフリーアナウンサーの陰に隠れ、中居氏側に石を投げるような行為は感心できない。言いたいことがあるのなら堂々と自ら矛を突き立て、同時に渡邊氏の盾となってはいかがか。